青空カフェcafe

「銀河鉄道の夜」(続き)

 こんにちは、弁護士の橋本です。

 今日は七夕です。次回に引き続き、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をとりあげます。今回は、この物語の世界観について考えます。

 旅が始まって間もない「北十字とプリオシン海岸」の冒頭、カンパネルラはジョバンニに語ります。「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか」「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」

 なぜ、カンパネルラがここまで思い詰めるのか、その唐突さに驚きます。カンパネルラの言葉は、物語を読み進めるうちに繋がってきます。

 登場人物の中で最も不思議な人は、「鳥を捕る人」でしょう。ジョバンニが親友のカンパネルラと旅をする中で、しきりにおかしな話や行動をしたり、ジョバンニの切符を見て感心してみたりします。ジョバンニは、煩わしく疎ましく思いますが、次第に、気の毒でたまらなくなります。そして、「もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸になるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして」きます。そうして振り返ると、鳥捕りはいなくなっていました。ジョバンニは言います。「どこへ行ったろう。一体どこでまたあうのだろう。僕はどうしても少しあの人に物を言わなかったろう。」「僕はあの人が邪魔なような気がしたんだ。だから僕は大へんつらい。」

 ジョバンニもカンパネルラも、親思いで、親の幸せを願うのは自然なことですが、どうしてこの不思議な「鳥を捕る人」のために、ジョバンニが、そこまで「ほんとうの幸」を願うのか、この物語の核心のように思います。

 この後、幼い姉弟を連れた家庭教師の青年が現れます。仕事で先に本国に帰った父親のところへ向かう航海中、船が氷山にぶつかって沈没します。青年は、ジョバンニたちに、自分たちはこれから天に行くと話します。船が沈みかけたとき、青年は、何とか姉弟を救命ボートに乗せようとしますが、同じように小さな子どもたちや、必死になって子どもたちを乗せようとする親たちがいて、とても姉弟のために押しのける勇気がありませんでした。青年は、どうしても連れている姉弟を助けるのが自分の義務だと思い、前にいる別の子どもたちを押しのけようとして、「けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行くほうがほんとうにこの方たちの幸福だとも思い」、覚悟して、姉弟を抱いて、浮かべるだけは浮かぼうとかたまって、船が沈むのを待ちました。

 物語の中で「ほんとうの幸」という言葉が繰り返し出てきます。賢治は、他人の幸せを心から願い、そのために自分に何が出来るかを考えて行動する、それが自分自身にとっての「ほんとうの幸」でもある、と語っているのだと思います。それは、「あらゆる事を自分を勘定に入れず」「病気の子どもがあれば行って看病してやり」「疲れた母があれば行ってその稲の束を背負い」「みんなにでくの坊と呼ばれ褒められもせず苦にもされず」「そういう人になりたい」(「雨にも負けず」より)という賢治の思いと重なっているのでしょう。

 「銀河鉄道」が「サウザンクロス」に近づき、3人との別れのときが近づいてきます。男の子が、もう少し汽車に乗っていくと言い、ジョバンニが、一緒に乗っていこうと言ったとき、降りる支度を始めながらも別れたくない様子だった女の子が、もうここで降りなければならない、と言います。ジョバンニは、女の子に、天上なんて行かなくっていい、ここで天上よりもっといいとこをこさえなければいけない、と言います。女の子が、神さまが仰るから、というと,ジョバンニは、そんなのはうその神さまだといいます。青年も会話に加わり、たった一人のほんとうの神さまについて話をします。それから、列車が十字架の真向かいに停車すると、「女の子はいかにもつらそうに眼を大きくしても一度こっちをふりかえってそれからあとはもうだまって出て行ってしまいました。」

 2頁ほどの短いやりとりですが、胸を打つ場面です。人はなぜ、信じるものや目指す先が人によって違ってしまうのか、大切な人といつまでも一緒にいられないのか、その現実をどう受け止めるのか、ここにもまた、賢治の強い思いが込められているように思います。