こんにちは、弁護士の橋本です。
私は、将来役に立つかもしれないと思い、高校時代に受験科目として世界史を選択しました。受験のときは一生懸命やりましたが、歴史の勉強自体あまり好きではありませんでした。それから数十年経って最近興味があることの多くは子どものころ学生のころ取り組んでいたことが多いことに気付きました。当時熱中したこと、一生懸命取り組んだことだけでなく、当時はあまり面白さを感じないままに取り組んだことであっても、人生経験を重ねるなかで面白さが分かり、教訓を得られるようになってきます。歴史は特にそのようなものかもしれません。
今回は、塩野七生さんの著書「海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年(1~4)」(新潮文庫)を紹介します。
塩野さんは、知り合いのイタリア人から、なぜルネッサンス文明の花、フィレンツェ共和国ではなくヴェネツィア共和国を書くのかとよく聞かれ、いつもこんな風に答えていたそうです。
「国体を変えないでいて、あれほど長続きした国は他にないからです」
続けて以下のように述べています。少し長いですが、引用します。
「栄枯盛衰は、歴史の理(ことわり)である。現代に至るまで、一例も例外を見なかった、歴史の理である。それを防ぐ道はない。人智によって可能なのは、ただ、衰退の速度をなるべくゆるやかにし、なるべく先にのばすことだけである。ヴェネツィア共和国は、天与の資源にまったく恵まれなかったこの国は、おそらくそれがためにかえって、この難事業を、まずは及第点を与えてもよい程度にやりとげることができた国である。そして、この一事に対する私の関心は、長く外国に住み、祖国を外から眺める習慣のついた私にとって、ごく自然な想いの帰着でもあった。」
「もちろん、これを読まれる人がみな、著者の密かな意図を汲んで読まなければならないというわけでは、決してない。一千年を超える民族の興亡は、このような一事だけで料理するにはあまりにも複雑で面白すぎるからである。」
「第一作を書いた当時から、一貫して私の制作態度の根底をなしてきた考えは、歴史は愉楽である、ということにつきる。なにもわざと面白い事象ばかり取り上げなくても、それ自体ですでに面白いのが歴史である。教訓を得る人は、それでよい。しかし、歴史から学ぶことになど無関心で、ただそれを愉しむために読む人も、私にとって大切な読者であることには変わりはない。いや、そのような人を満足させえてはじめて、真にためになる教訓を与えることも可能なのだと信じているくらいだ。」(第4刊「読者に」3頁から4頁)
私が塩野さんの本を好んで読む理由、人に塩野さんの本をお勧めする理由を見事に説明して下さっています。
今の観光地ヴェネツィアからは想像がつきませんが、元々ヴェネツィアは人の住める陸地ではありませんでした。ローマ帝国末期の5世紀、襲ってきた蛮族から人々が命がけで逃れた地は、葦が一面繁るだけの潟(ラグーナ)でした。この地を人の住める土地にするためには地盤整備から始めなければなりませんでした。木材を大量に水中に埋め込み基礎として陸地を作り、干潟の水が淀んで腐らないよう水路を通すことからから国造りを始めたヴェネツィアには、自給できるものとしては塩と魚しかありませんでした。その後も北方民族から逃れるため本土からは更に離れた潟の中央、沼沢地帯へと移住を強いられます。誕生したばかりの神聖ローマ帝国から攻められたときには潟の奥へ退却して引っ張り込み、干潮で浅瀬に乗り上げた敵を壊滅させました。この勝利により神聖ローマ帝国とビサンチン帝国の間でヴェネチアはこれまでどおりビサンチン帝国領に属することが認められ、両国内での交易の自由が認められます。ヴェネチアは周辺諸国に何度も脅かされながらも、やがて交易立国として発展していきます。
ローマ帝国崩壊後、中世に入ってイタリアには統一国家が現れませんでした。多くの都市国家、教皇庁が勢力争いを繰り広げる中で、ヴェネチアと同じ地中海を舞台に交易を柱とするライバル国が現れます。それとは別に、交易船や街を襲う海賊との戦いも長く続きます。ローマ法王や近隣諸国、やがて台頭してくるトルコなどとの関係でヴェネチアは常に難しい判断と対処を迫られ続けます。ヴェネチアは終身の国家元首(ドージエ)をもちながらも共和制を維持し、商船を守るため海軍を増強し、地中海貿易により発展していくことになるのですが、長い歴史の中でなぜヴェネチアだけが生き残れたのか、そのための知恵と工夫、独裁と内紛を徹底的に回避しながら緊急時に迅速的確に対応する仕組みが明らかにされます。
この本は単なる政治史ではありません。政治家だけではなく当時のヴェネチア人がどのような人たちでどのような技術を用いて社会を築いてきたか(街作り、人材育成、土木技術、造船技術、軍事技術、商慣習、貨幣制度、金融、保険制度、芸術、ファッションなど多岐にわたります)、ヴェネチアの男たちはどのような生き方をしていたか、表舞台に出てこないヴェネチアの女たちはどのような生活をしていたかが詳しく描かれております。まさにヴェネチア人の「物語」であり、大人のための歴史本といえるでしょう。
人権思想の浸透した現代に当時の思想ややり方を全て当てはめることはできませんが、今の時代にあって、平和を守り、国を守り、生活を守るために、当時のヴェネチア人の知恵、その徹底したリアリズムから学ぶところは多いように思います。