こんにちは、弁護士の橋本です。
前回に引き続き、角川ソフィア文庫の「ビギナーズ・クラシックス日本の古典 枕草子」の助けを借りながら、その面白さについて述べてみたいと思います。
「枕草子」の構造として、「鳥は」「川は」のように「~は」の形と「すさまじきもの」「うつくしきもの」のように「~もの」の形で同種類のものを連想的に並べたててゆく型式の段が全体の半分以上を占めます。
これとは別に、清少納言が仕えた中宮定子の後宮の様子を日記的に記録したものもあります。機知に富んだ洗練されたやり取り、日常の出来事や年中行事などが題材となっています。
「枕草子」では、当時の貴族社会、その中でも最高に洗練された場であった中宮定子のサロンにおいて、何をすてきだ「をかし」とするのかを示しており(逆に美に反するものも多数挙げられていて興味深いです)、「古今集」以来の伝統的な和歌の世界を踏まえつつも当時の女性としては珍しかった清少納言の漢学の素養を反映しています。そして、最終的には、美しさ、才知、人柄、どれをとっても比類ない中宮定子への賛美へとつながります。実際の中宮定子、清少納言は、権力闘争に巻き込まれ、幸せな時間は長く続かず時代に翻弄されるのですが、「枕草子」の中ではそのような暗い背景は一切描かれていません。才気活発で人間味にあふれる中宮定子に対する敬慕、そこに居て認められる喜びがあふれ、変わらず明るく華やかな宮廷生活と中宮定子を中心に繰り広げられる知的遊戯の世界が描かれています。
「現実がどのように厳しいものであっても、『枕草子』の作品世界は輝かしい春の光に満ちている。もしくは凜とした冬の美しさ、真っ白な雪の輝きに。」(233頁)。
ここからは、いくつか特に印象的な段を紹介します。
「木の花は」(第34段)
当時好まれた花々で、紅梅、桜、藤、橘、梨、の順に次々と色合いや形状などについてコメントを加えています。例えば、橘について、「初夏のころに葉が濃く青々と茂っているところに花が真っ白に咲いているのが、雨のちょっと降った早朝などはまたとなく風情がある」などと述べています。冒頭の「春は、曙」と同様、「光と色」のコントラストが伝わってきます。最後の梨の花については、つまらないといわれているが、よくよく見ると花びらの端に美しい色艶がほのかに見えると述べた後、唐の玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を歌った白楽天の「長恨歌」で楊貴妃が梨の花に例えられていることに触れています。「枕草子」の特徴を良く表した段だと思います。
「野分のまたの日こそ」(第191段)
野分とは台風のことです。台風が過ぎ去った日の庭の様子について書いています。植え込みの花々が痛々しく、木々が倒れ、枝が折れている様子にしみじみとした趣を感じています。「格子の目などに木の葉をわざわざしたように一つ一つ丁寧に吹き入れているのは荒々しい風の仕業とも思えない」と述べ、その観察眼と感性の鋭さを示しています。そして、荒れた庭を使用人が手入れしている様子を家の中から眺めている美しい女性の姿に風情を感じています。退廃したものに美を見いだす日本人の感性が示されており、自然美から人の美に目を移していくところもまた「枕草子的」です。
「過ぎにし方恋しきもの」(第27段)
過ぎ去った昔が恋しく思い出されるものを挙げています。「(葵祭で使われた)枯れた葵の葉」「人形遊びの道具」「青、薄紫などの布の端切れが押しつぶされて本の間に挟まっているのを見つけた」「もらったときしみじみと心動かされた手紙を雨ですることがない日に見つけ出した」「去年の夏の扇」。この段には冒頭「過ぎにし方恋しき」以外に感想がありません。ただ象徴的な物が並び、読む人もまた想像力を働かせて追憶の日々に思いを巡らせます。
「雪のいと高う降りたるを」(第284段)
雪が降り積もっている日に、御格子(雨戸)を降ろしたまま女房たちが集まって控えていると、中宮定子から「少納言よ、香炉峰の雪はどんなであろう」と言われたので、御格子を上げさせて簾を高く上げたところ、中宮定子がにっこりとされた、その後、女房たちが、中宮様にお仕えするにはそうでなくてはと言った、というエピソードです。白楽天の詩の一説「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」を踏まえたやりとりです。中宮定子の外の雪の景色を見たいという思いを漢詩の世界になぞらえて、清少納言の機転を試したのでした。「枕草子」の世界観、中宮定子と清少納言の関係がとてもよく伝わってくる一節です。